「社会問題に興味ある学生が結局普通の会社に就職してしまう」現象
問題意識
僕は社会問題系の団体やプログラムに時たま顔を出すこともあり、僕の周りには「社会を良くしたい」、「社会を変えたい」という先輩や同期がちらほらいる。
だが、学生の時はそういうことを言いつつも、知り合いの多くはいわゆる普通の会社に就職してしまっている。
(まあ周りの人がいう「社会を変えたい」という言葉にはいつも突っ込みたいんですけどね。これについては次のエントリーで書くかも。)
僕はこの「社会問題に興味ある学生が結局普通の会社に就職してしまう」現象に結構問題意識を持っている。社会問題に興味あっても学生のうちだけだと問題解決されないやんと思ってしまう。
という問題意識があり、「社会貢献を仕事にする人を増やすにはどうすればいいのか?」という問いをイベントで投げてみたところ、しっくりくる答えが返ってきた。
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①そもそも僕の社会貢献の定義が狭い
とりあえずこれですね。「社会を良くする」とか「社会貢献」とか言うが、社会の定義、貢献の定義なんてほんと人それぞれ。
僕みたいに自分にしか出来ないことで新しいプラスの価値を生み出す云々の実現不可能な定義をする人もいれば、社会で働くことそれ自体が社会貢献だという人もいるしそこは人それぞれ。
まあこれは余談だけど、就職が競争社会な以上個人的には社会貢献なんて自分で全く新しい事業作るか(起業とか)、自分が入った(社会にとってプラスになってる)組織で他の人が到底出来ない圧倒的結果出すかしか出来ないと思う。
つまり例えば国連に入ったとしても、もし自分が国連に入らなかった場合他の人が国連に入って自分とほぼ同等の仕事をする時点で、国連に入ることは社会貢献にならないと僕は思うわけである。
話が逸れたが、僕の社会貢献の定義が狭いだけで他の人は自分が納得いく社会貢献の定義の中で社会貢献を仕事で実践してるいうことだ。
②社会貢献が出来る仕事のパイが限られてる
①が人々の主観的なものなので、より問題なのはこっちだ。
よう考えたら社会貢献が出来る仕事なんてそんなにない(と思う)。
例えば国際協力だと、国際協力を仕事にするならJICAか開発系機関、後NPOとかしかない。
いくら国際協力に取り組みたい学生が増えようが、国際協力に関する仕事のパイは決まっているのだ。
(だから自分で仕事をつくらないとry))
ということで、いくら社会問題に関心のある学生が増えても、社会問題に取り組める仕事がないと意味がない。
僕が時たまやってる+Social Lifeという団体ではそうした社会問題に関心のある学生を増やそうとしてるのだが、実はそこには本質的な問題があったりする気がする。うーむ。
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まとめ
「社会問題に関心のある学生が結局普通の会社に就職してしまう現象」には
①そもそも僕の社会貢献の定義が狭い
←皆自分の中で定義した社会貢献を仕事でやってる
②社会貢献が出来る仕事のパイが限られてる
←社会貢献したい学生がいても、そうした仕事がないとダメ
という二点が挙げられる。
仕事のパイ問題に関しては、もう少し掘り下げてやる気が起きれば近いうちにま書こう。
ちなみにたまにこうしてブログを書こうと思い立つのは、別に僕のクソしょうもない浅い考えを書こうとかそういうことではなく、文章を書く練習と自分の思考をまとめる作業にすぎないのであまり気にしないでください。
アメリカと日本の教育格差の違い?
<目次>
①疑問のきっかけ
②違いの背景
③まとめ
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①疑問のきっかけ
今たまたまソーシャルビジネス一覧的な本を読んでいるのだが、そこでアメリカのソーシャルビジネスでは教育格差の改善をするものが多いことに気づいた。
例えば...
- New Leader for New Schools(NLNS):校長育成プログラム。優秀な校長を育成し、学校経営の観点から子どもの学力向上、教育格差の是正を目指す。
- Teach for America(TFA):有名なやつ。大学卒業後就職までのギャップイヤーに学校に教師を派遣する。
ちなみにTFAに参加することで就職に有利になる、つまり社会貢献が就職につながる点や、TFAの背景としてアメリカでは教員の収入や社会的地位があまり高くない(らしい)といった興味深い部分も多い。
(アフリカでも教員の収入や社会的地位が高くない国が多いらしく、Teach for Africaってのも面白い気もする。)
などなどなんかいっぱいあるみたい。教育起業家専門のベンチャーキャピタルなんかもあるらしい(New School Benture Fund)。
でも日本ではあんまり教育格差是正のソーシャルビジネスってないよね。てか日本って地域や学校での教育格差がないから難しくね(逆にアメリカは地域や学校によって教育格差があるの?)ってのが疑問の始まりである。
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②違いの背景
上にも書いた通り、実はアメリカには地域や学校によって教育格差があるのが日本の教育格差との違いなのだ(と思った)。
ある有識者(同級生)の話によると、アメリカでは州ごと、また州の内部において教育格差があるらしい。
理由としては、
・州ごと→連邦制なので州ごとに方針が異なる。
・州の内部→州がでかいので都会と田舎に分かれる。
かららしい。よく考えればそうだ。
しかし裏を返せば州単位や学校単位での教育支援が可能だということである。
そう考えると日本って比較的県ごとや地域差って少ない。大阪府と三重県で教育の差があるわけでもないし、大阪市と門真市で大きく差があるわけでもない。
むしろ日本では世帯の収入や家庭の事情による教育格差が多い気がする(アメリカもそうかも)。その原因の一つが塾の存在だったりするのが日本(後私立とかかな)。
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③まとめ
色々長くなってしまったがつまり、アメリカは州ごとや州の内部での教育格差があることに特徴がある。
でその違いから、アメリカでは「州・学校」、日本では「個人・家庭」と支援する単位が異なることから支援のしやすさの違いが生じ、その結果教育格差関連のソーシャルビジネスの多さの違いにつながるのではと考えてみたのでした。
まあ最近は日本でも塾の存在に注目して(?)、色んな企業が映像授業を安く届けたりもしている。
面白いのは格差の原因の一つである塾の類塾が、世帯収入に応じた授業料減額制度を導入したことである。
なるほど、そういう着眼点もあるのね。
という話でした。彼女所有欲求の低下により今回はそういうオチはなし。
「逃げるは恥だが役に立つ」というアイデアはどうですか
先日とある機会でグループでアイデアを作り発表する機会があった。
そこでは「競争以外の新たな評価軸を人々が求めている」という結論に達した。
私達が日常生活で抱える不安や不満に関して、
「努力しても必ずしも報われるとは限らない」、「なんとなく楽しい社会になってほしい」といった、社会での不平等感やある意味スローライフ的な社会を欲する感情が考えられた。
そんな事実から、「現在の社会は競争という評価軸しかないのではないか」という考えにいたる。
受験、就活、昇進やリストラ...。現在の社会はつねに競争することを求められる。
しかしその一方で、能力は遺伝的、また環境的なものにより左右されてしまう。
そうして
- 頑張ったのに報われないことが起こる
↓
- 次第に自尊心がなくなる、また限界を感じる
↓
- 何かを頑張ろうという気が起きなくなる
という負の連鎖につながっていく。
一度社会のレールからはみ出てしまうとなかなか競争社会の中に戻ることは出来ない。
つまり、「競争以外の新しい評価軸を人々は求めているのではないか」。そんな問題意識を僕たちは共有した。
そこで僕が考えたのが「趣味を新しい価値軸に据えよう」。
コンセプトは題して「逃げるは恥だが役に立つ」。
具体的には、競争という評価軸から逃げるために趣味を多く持てるためのプロダクトを作ろう、という考え。
好奇心のアンテナが広い子どもを対象に色々な趣味となり得るものを体験してもらい、自分に合うものを見つけてもらう。
そうすることで、競争社会に疲れた時に
・仕事の後に趣味に現実逃避できる
・趣味を仕事にし仕事自体を楽しく出来る
という競争からの逃げ道を作ることが出来るのではないか。
割とよさげではないか?と我ながら思ったが、結局この案は採用されなかった。
ただ、「競争以外の新しい価値軸を人々は求めている」という問題は確かに強くあると思うし、それに対して「趣味を新しい価値軸として据える」という解決策はよさげな気はしている。
実はこれは私の原体験によるものでもあり、我ながら意識高く過ごしてきた一二回生に比べ、元々の能力が欠如しまくっていた僕は何をやってもうまくいかず、三回生になるころから徐々に何もやる気が起きなくなってしまった。
で元々意識高くベンチャー志望とか言ってたもののなんか合わんなーとなった時に、お笑い関係とかテレビ制作とか仕事にすればいいんじゃね?という逃げ道に気づく。
で最近はネタで芸人になるとか言ってるわけですね。ネタだけど。
多分普通の企業に就職しそうだけど。
そんなことやCAってめちゃくそかわいいな国内線最高かよとか考えてた今週末でした。
考え「続ける」ことの意義―バイアスをかける
「5分10分考えて思いつくことは誰でも思いつく。アイデアがひらめくには普段からアンテナをはり続ける、考え続けることが大事」
と、先日フィリピンに行ったインターンの事後ワークショップで言われた。
僕は感銘を受けた。
感銘を受けた理由の前に上の言葉の僕の勝手な解釈を述べたい。
「考え続けることでアイデアが生まれる」
このことは僕にも心当たりがある。
「考え続けること」は、僕はある意味で「自分の思考にバイアスをかけること」だと思っている。
多かれ少なかれ、人は物事を見るとき考えるときに、自分のフィルターを通してしまう。
当たり前ながら、バイアスという自分色のメガネ・レンズを通して物事を見ている。
悪い意味ではそれを偏見と呼ぶのだが。
さて、その「自分の思考にバイアスがかかってしまうこと」、それは僕はいい意味でも使えることだと思っている。
例えば、途上国開発に関心がある、つまり途上国バイアスがかかっている人からすると、
今話題のAIもどこかで無意識に途上国の視点から、ドローン、あるいは車一つとってしても途上国バイアスで頭のどこかで考えてしまう。
つまり、何やかんやつねに途上国という視点から考えてるってことですね。
で「考え続けること」は、「自分の思考にバイアスをかけること」だと。
つまり考え続けることで自分の思考のバイアスを増やせるってことすね。
僕の場合でも、僕がよく言う「優秀な人がこんなにいるのにどうして様々な問題が解決されていないのか」って問いをずっと考えてたら、「優秀な人ry)」バイアスが知らん間ににかかっちゃってたりしたわけですね。
そこで冒頭の言葉をこれまで述べた僕の解釈とともにまとめると、
「考え続ける→思考にバイアスがかかる→その思考で日常アンテナはり続けちゃう→アイデア生まれる」・・・(※)
という流れ。
ここまでが冒頭の言葉の僕なりの解釈。
ここからが僕が感銘を受けた理由。
いや、それ誰でも出来るやん!!
この地球No.1凡人の僕が織りなす感動はおそらく伝わらないだろう。
まあつまり考え続けることぐらいは凡人でも誰にでもできるということです。
でもそれだけで(※)の(論理ガバガバ)フローからすればアイデアを生み出すことができるのではないか。
アイデアとかイノベーションって小さいころからエリート教育受けてきた優秀な意識高き人しか出来ないと思ってたよね。
でもこれなら幼少期好奇心圧倒的育まれなかったコンプレックスの僕でも出来るかもしれない!
(コンプレックスという言葉はあまり好きではない。だってしゃあないもんはしゃあないから(どうだこの凡人コンプレックスが織りなす圧倒的論理の飛躍))
イケメン陽キャラ学生時代学級委員長で教室の中心にいた4K(高身長高学歴かっこいい彼女持ち)意識高いインテリジェンスを
ブサイク陰キャラ学生時代教室の隅っこで心失ってた4K(クズクソキモい彼女いない)凡人がぶっ潰すことが出来るかもしれない!!
と僕は思ったわけです。
まとめると、誰でもできる(※)のフローでいいアイデア作れるかもしれないね、考え続けて自分の思考のバイアスを作っていくことは大事なんじゃねって話でした。
就活というものをしてみてのとりあえずの雑感
就活というものを流れのままに少ししてきたので、少し雑感を。
【反省編←つまり来年以降就活をする人には是非意識して欲しいこと】
①企業を知ることの重要性
就活をしてみての最も大きな反省。
特にベンチャー系を少しでもよぎったことのある人は超重要ポイントである。
これはベンチャー想定であるが端的にフローを示すと、
サマーインターン行ってみたい→企業知らない→自分でも知ってるようなベンチャーは超人気&難関のため選考受けてもまず落ちる→そもそも受けない→受ける企業無くなる
ということで、企業を知らないとそもそもサマーインターンに行けないのである。
合同説明会に行くことの重要性。
超大規模な合説に行かず、競馬を見に行った自分(ただし後悔の文字は微塵もない)。
ちなみにベンチャーに全く興味がない人でも、一回はベンチャー系のサマーインターンとか、経営者の講演会とかは行っておいた方がいい。
大手とベンチャーは全く別物のような気がする&だからこそどっちかに絞るのは自分の将来のキャリアを半分に狭めるように思うから。
②とりあえずやってみるノリは大事
これめっちゃ大事。
選考とかグループディスカッションとか嫌やなーとか思ってたけど、やってみると楽しかった。
でも、嫌やなーと思って結局あんまり選考とか申し込まず、今になって後悔。
これまでも「やる前はめっちゃ嫌やったけど、いざやってみたら楽しかった」という経験は非常に多かった。
ある授業では、バリバリに意識高いレベル高い人達と議論しまくり、課題えぐいみたいなことが書いてあって、めっちゃやるの嫌だったけど、今となっては今まででダントツで面白い授業でダントツでためになった授業だった。
ケニアも行く前はめっちゃ嫌だった。
まあ物事大体そんなもんやと思う。やる前って大体何でもやるの嫌よね(私が圧倒的コミュ障だからかもしれんが)。
留学も今めっちゃ行きたくないけど、行ったら行ったでよかったって思えるんだろうなーと思う。
楽しいかどうかもわからんけど、逆に言うとやるかどうか決断する前にはどれだけしんどいかとかわからんから、思いきってやってみるのがいいんじゃねってのは経験則的に誰しも持っていることなのでは。
反省編だけ書いてつかれたので、もう書くのはやめます。
まあ就活のために就活をするのはキモい死ねって感じやけど、何か自分のために就活を利用してみるという観点では就活は非常にいいツールだったように思う。
20年生きてきた節目に自分について振り返ってみるのも悪くはないし、大学の糞授業受けるよりは企業の人のお話を聞く方がよっぽど楽しいものだったりする。
リア充クソテニサーウェイウェイ系そんな顔よくないけど合コン行きまくって女抱きまくってる系男子にすらグループディスカッションでコテンパンにされることもあったが、自己分析したら大学はいるまでに圧倒的負債を抱えて大学に入ったのだなと分かり納得できたものだ。
学部で地中に埋もれすぎて、就活で同じテーブルに座ってあら初対面なんてことも何度あったことか。
地上で暮らしている人科生はまあなんと言葉に出来ないくらいの満点の星空のようにキラキラしていたことでしょうか。
毎回同じテーブルに座った人がほぼ全員キラキラしてて、「ああこれが本来の大学生なんだな」って世間を知った、そんな就活でしたね。
「死」というものを意識することで、本当にやりたいことが見えてくるのではないか
またすぐ明日に変わる 忘れてしまっていないかい
残された日々の短さ 過ぎ行く時の早さを
一生なんて一瞬さ 命を燃やしてるかい
かけがえのない時間を胸に 刻み込んだかい
これはかりゆし58「オワリはじまり」の一節である。
僕は一生は有限であること、「死」というものを意識した時に、自分がやりたいことが自然と浮かんでくるのではないか、と思う。
限られた自分の人生をどう使っていくのか、どう使いたいのかが現実味を持って表れてくるのではないだろうか。
人には死が訪れること、死というものを考えた時に言い表せない恐怖を感じるという「事実」は変わらない。
しかしその「事実」を利用して、自分の人生について深く考えようという「解釈」を施すことは出来る。
死と向き合うことは大変だ。しんどい。
しかし、ふと死というものを「意識してしまった時」、
自分はこの人生をどう過ごしていきたいのか、
自分のやりたいことは何なのか、
についてせっかくなので思いをはせてみてはいかがだろうか。
私は彼女がほしいぞ
一生が有限だと悟った時、
「一歩踏み出す勇気」が必要なのだと気づいた
人生はトライアンドエラー
後は長らく地中に埋まっている恋の芽が芽吹く日はいつぞや